国語教師日記

【記録】作問勉強会

未来の自分へ

8月29日に根岸大輔先生の作問勉強会に参加しました。明日は朝早いというのに、そして今日は4時起きだというのに、脳内麻薬が僕を寝かそうとしません。夏期講習、週4日8コマの中3国語の授業を持ち、少し授業が上手くなったと思い始めていた僕は、いかに低レベルな次元で成長を感じていたのか気づかされました。

穴埋め・記述問題が「パズル」になってしまうこと

僕は「まだ僕は現場教員じゃないから」と自分に言い訳をつけて、安易に記述問題を出してしまいました。それも文字制限なしで。一応設定は中3の受験期に入る前に最低限の読解力があるかを授業内で確かめるようなものにしていました。ちょうど夏期講習の中3国語、今やっている授業の中にひょいと投げ込んだときに、「できる子は普通にできる」、かつ「できない子は致命的にできない」ような問題を作ろうと思いました。いわゆる診断的評価としてこれを使おうとしたわけです。

その中で僕は穴埋めを出しました。前半に出てきたキーワードが中盤にもう一度出てきたので、ここぞとばかりに中盤の方を空欄にし、「漢字2字」という制限をつけました。僕の中では、この「漢字2字」というのを鍵に前半を読み直して、そこに答えを見つけてくれれば、と思っていました。

今日の議論の中では、そうした発想をパズルとか、文字数合わせとか呼ばれて、あまり好意的には評価されていませんでした。これは小1、2の教科書会社が作るテストに典型的に見られるようでしたが、何より自分はそれに違和感を抱いていませんでした。未だに書き抜き問題で7字と言われたらとりあえず7字でまとまりのいいところを探してしまいます。しかし果たしてそれが「読解」と言えるのか。

それを打開する方法として「1語」とするような方法が出てきました。

一方で、記述問題の答えのような文章の一部分をくり抜く虫食いタイプの問題。こちらは中学受験などでは読解の補助線として使われることがあるそうです。なるほど僕にはそういう発想が欠けていました。問題を解くことで文章が理解できる。例えば散々解いてきたセンター試験の過去問や、自分の大学の現代文だってそういう側面はあったように(今となっては)感じられます。こういう発想が、数学にあるのは分かります。⑴が解ければそれが⑵の誘導になる、というタイプです。しかしこれを国語にも導入できれば。講義形式の授業だけでなく、問題を解く中で読みを深められるなら、それほどいい機会はありません。

一般にそうした問題は同一文脈から言葉を書き抜くことが多いようですが、前述の小1、2の教科書会社のテストではてんでばらばらのところから切って持ってくるというタイプが多いらしいです。具体的には忘れましたが、確かに小学生の国語を担当したときに、同様の虫食いの問題で「やけに答えが取っ散らかってるな」と感想を抱いた記憶がありました。(ちなみに学習院大学にもその傾向があるらしいです)

この手の問題の長所としては、「採点基準がぶれない」ということがあるようです。現場で働くうえでは重要な観点です。普通に記述させるよりも、書き抜くことで丸つけしやすくする。一方虫食いの部分を長くし、自由記述にすると採点基準にぶれがあり、書き抜きのままにすると、その意味が問われるらしく、扱いが難しい出題形式でもあります。

また、字数指定について伺いました。自分自身が中学時代に「8割書かなきゃ減点される」と塾で教えられたのを、後生大事に自分の教え子にも伝えているわけですが、現場の教員の方々も「8、9割を期待したい」という話でした。

その中で「換言がスマートな生徒が文字数を満たさないこともある」というお話がありました。これは高校受験指導ではほとんど感じたことのない問題点でした。記述問題の答えは要素+接続でできているというお話だったのですが、この要素を別の表現に置き換えてしまうことで、ググっと短くまとまってしまうパターンです。こちらは減点しない例もあるようです。

高校受験指導の場合、書く問題は「本文中の言葉を使って」と留保が付くことが多く、換言は期待されていません。夏期講習で中3がとり組んでいる問題集には、換言が求められる問題もあるのですが、何より僕の県では選択問題がほとんどのため、「これは解けなくていい」と伝えてしまいます。

その中で字数指定の量で難易度を調整しているという話は印象的でした。易しくしたければ想定した答えの2割増し。難しくしたければそのままか1割減(減の場合は解答も相当練る)。実際、中学受験などの方が、むしろ字数指定が増えるそうです(抽象化できず具体的に書くためだそうです)。ただ、減ずる=換言を期待する大学は東大や京大で、神戸大や大阪大は多少分量が多くてもしっかり書くことを期待しているとのことでした。

ちなみにこの点の黒歴史も思い出しておくと、僕は一六〇字とかの記述をきっかり1文で書かなきゃならないという謎の固定観念に突き動かされて、もはや主節の位置が判然としない、やけに長ったらしい文章を書くようになってしまいました。というかこれは人前で喋る時も同じ傾向があるので、よろしくありません。直しましょう。

選択問題について

選択問題は解くのも苦手だし、作るのも苦手です。何より誤答を作るのが難しい。自分で文章問題から作問した経験は2度ほどしかないものの、中3の受験向け特訓の文法教材を作っているときでさえ苦労したので、いわんや文章問題をや。

ここでも注意したいのは、やはり選択肢には要素+接続があるわけですが、「要素」だけに着目した間違い探しにならないようにとのことでした。そういえば自分の解説は間違い探しが多いように思います。

その中で本文と矛盾しないが問いに答えられていない選択肢や不適切な因果関係で結ばれた選択肢を誤答として混ぜるなど、そうした「要素の条件反射してしまう」生徒が引っかかるようにするという話は、確かに必要だと思いました。

春期講習で出会った小学生が、ちょっと想像を絶するぐらい国語ができず、選択問題も1問も当たらないみたいなレベルだったわけですが、あれは要素レベルで選択肢を判断していたからじゃないか。サイゼリヤの間違い探しみたいなゲームになっていたんじゃないか。今更ながらそのことに気が付きました。

また、誤答の作り方として①述語を捻る、②一部が間違えているというパターンは王道としてあるようです。その上で、③主語と目的語を逆転させたりするという話もありました。このパターンはあまり見かけないですが、あれば引っかかるだろうなというのは、生徒を見てて思います。また心がけとして、「もし記述で出たら出そうな生徒の誤答を混ぜる」「選択肢からだけでは解けないものを」というのは大変参考になりました。それ自体がトレーニングになりそうです。

ちなみに新共通テストの日本史の選択問題には、史実としては全て正しいが問いに答えているものが1つしかないというのがあるそうです。なるほど史料を適切に読み解く能力が測れるのかもしれませんが、テクストを扱うという立場では国語もそういう流れになっていくのかもしれません。(それにこの県の高校入試が同調するなんてことはやめてほしい、これ以上難しくなる必要はない)

複数テクストの文章

国語科教育論のテスト作成の課題で、複数テクストの問題を出しましたが、あれは題材文と、自分が数日前に読み終えていた河合隼雄が、およそ奇跡的な合致を見せたために為せた技で、現実的には先行研究を漁ったり、教科書や問題集に目を通すなど、日ごろからの地道な努力が必要とされるように思いました。その上で取り上げるテクストの恣意性は仕方ないところでしょう。さしあたり本を読み続けよう。

ちなみに最近の自分の中でのスローガンは、「読書は資本」です。およそ小林多喜二を研究対象に据えた大学生の発言とは思えない軽率な発言ですが、僕は共産主義者ではない(現時点では)。

国語科教育論の時は「合致する」、つまり類似性を生かした作問をしたわけですが、反対に差異に着目した作問の可能性も示されました。これはなるほど、と思いました。

僕はいつか生徒に『朝日新聞』と『産経新聞』の社説を読み比べるみたいな経験をしてほしいと願ってやまない人間ですが、対象テクストを批判的に見ることができる、言い方を変えると、メタ的な見地から相対化できる態度というのは、やはり涵養したいものだと思いました。「教科書信仰」というお話も出たのですが、そう言えば僕はここ数週間、塾の教材のテキストの題材文をけなしまくっているので(それ自体ある種の芸として)、かえって生徒には「反-テクスト信仰」みたいなものが芽生えているかもしれません。それはそれでよろしくない。

また複数テクストの中で「何の話をしていないか」を見極めさせるという出題が注目を集めました。なるほど重要です。言い換えると「クソリプしない技術」といった具合でしょうか。

ただし「今していない話をあえてふっかける」という議論の仕方が国文学の中にあることは否定し難い面もあるかなと思います。いえ、「国文学」とは大風呂敷を広げましたが、正しくは「僕の中にある」です。演習の授業があると、人の発表の些末な表現について質問して、論旨については無関心みたいなことがよくあります。

そういう姿を踏まえて、生徒に「何の話をしていないかを見極めろ」と言うのは無責任だと思い、自分のスタンスを見つめ直そうと思いました(もはや国語教育以前の問題です)。

総括

少し自分が調子に乗っていたなと感じました。そういう鼻っ柱をぴしゃりと折られた気分ですが、不思議と嫌な気はしません。卒論のことも心配ですが、まだ僕には準備時間が半年以上もある。この期間を使ってできることを1つずつしていきたいと思いました。